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他社に学ぶCSR

~少年の心を持ち続ける経営~ 第二回 中村ブレイス株式会社(島根県)
地域との共生という言葉がある。企業は、雇用や納税だけでなく、地域が誇れる文化の教育や街づくりへの貢献を積極的に引き受けて、その地域社会とともに成長する存在でありたい。義手義足、補助装具、人工乳房。35年間、医療用義肢装具の新境地を開拓し、若い義肢装具士の育成に努めるとともに、その成功を故郷に還元し、故郷「石見(いわみ)銀山」※1の世界遺産登録に尽力した経営者がいる。島根県大田市大森町の中村ブレイス株式会社代表取締役の中村俊郎(なかむら としろう)氏だ。大航海時代、西欧の商人や宣教師は石見銀山の銀を求めて日本に集まった。その歴史の街で起業したのだ。富士ゼロックスCSR部長の澁谷隆が中村俊郎氏に話をうかがった。 中村ブレイス社長 中村氏(左)と富士ゼロックス 澁谷(右)
(2008年6月6日、中村ブレイス本社でインタビューを実施)

幼少時代から起業まで

澁谷 : お子さんの頃はどのように育ったのですか?
中村 : 私は、昭和23年2月20日に大森町で、五人兄弟の末っ子に生まれました。両親が40歳をすぎてからの子どもなので、親兄弟や地域の人からとても可愛がられた記憶があります。この子は将来大きいことを成して中村の家を支えると、周囲の人々からよく言われました。私の父親は、大森町が大田市に吸収される際に幕引きをした助役兼収入役でした。「昔は世界に冠たる銀山だった」、「マルコポーロの歴史から考えると非常に面白い街だ」と、廃れていく大森町や石見銀山をなんとかしたいとの想いをたびたび語ってくれました。父親は戦後、資産を失い、生活も困窮しましたが、私に大きな夢を残してくれました。一方、母親は決断が早く、豪気で面倒見のよい人でした。怒ってぱぱっと言うものの、30分もすると、「さっきなにをいうたかいな」という調子です。文句もいうけれど、人の世話もぴしっとやりました。戦後、外地から戻った親族が20~30人身を寄せたときも、国鉄バスに乗って、半日かかって隣町の実家からゴボウや瓜を調達してきては食べさせていました。
澁谷 : 中村さんが地元地域の再生に力を注ぐ原動力はどこにあるのですか?
中村 : 父母の教えが大きいと思います。二人の背中が私の教科書です。父母が偉かったのは、戦後の物がなく、大森町もどんどん廃れているときに、世界は広い、頑張っている人がたくさんいる、と子どもに伝えてくれたところです。「大森町の石見銀山は、大航海時代にはポルトガルの宣教師や戦国の大名が危険を乗り越えて集まってきた魅力のある街、日本の歴史を支えた街だ。それが今では過疎化の一途をたどっている。隣町に行けば瓦工場や製紙会社が隆盛だが、大森の街だけが沈んでいる。将来誰かが出て大森の街を再興してくれたらなあ」と父はしみじみと語っていました。
澁谷 : 大森町からも多くの人材を輩出していると聞いていますが?
中村 : 判事や銀行家も輩出しましたが、みんな都会に出て行きました。大森町に想いを伝える、フィードバックする、できれば大森の土地で国際的な活躍する人が現れて欲しいと、役場を退いた父親が12~13歳の私に、こたつにあたりながら語ってくれたんです。それが私の原点です。山陰の田舎だといっても500年前は日本の中心地だという歴史を忘れている、そのDNAを発掘したい、という文化人的な思いが父親にはあったように思います。
澁谷 : ご両親はどのようにして国際的な視点を養われたのですか?
中村 : 父母は戦前、朝鮮にある日本窒素(株)に勤めていました。そこで国際的な視野で社会を見る眼を養ったのだと思います。父親は、偉い人が広い視点で日本の将来を考えている、といった話を家庭でよく語ってくれました。デパートでの買い物、スチームのある住宅などについても家庭で懐かしそうに話していたのを覚えています。
澁谷 : 地域の方々への深い想いはどこから生まれているのでしょうか?
中村 : 父親は役場の仕事、母親は婦人会の仕事で忙しかったので、子どもの頃から近所のおじさんやおばさんが学校の参観日に代理参加してくれたりして、とても面倒をみてもらいました。父母だけでなく、地域や保育所の先生が自分を可愛がって励ましてくれましたね。役場の女性職員に、中村屋のとんちゃん、とんちゃんと抱っこされて笑顔になるでしょ。それが今の自分を創ったと思います。大森町は私にとって大きな家族のような存在です。
澁谷 : 義肢装具士の仕事をなぜ選んだのですか?
中村 : 家庭の事情からそのまま大学に進学せず、高校を卒業して手づくりの義肢装具の世界に入りました。周囲は中村屋の俊郎さんが何でそんなに地味な仕事に就くのかといぶかりましたが、リハビリテーションというこれから大切な仕事でありながら他人があまりやっていない、一生の仕事としていいなと思って選びました。
澁谷 : 京都の義肢製作所で6年間修行した後、23歳のときに単身渡米されましたね。どのような目的で渡米されたのですか?
中村 : 京都で修業中、出入りしている京都大学の先生も熱心に勉強を続けていらっしゃる、自分も体系的に勉強しようと19歳で近畿大学の通信教育過程に入学しました。仕事と両立しながらなんとか23歳で卒業しましたが、その頃からアメリカやドイツの本場で見聞を広めたい、自分のことや日本の義肢装具をじっくり考えたい、という気持ちが強くなりました。そこで、勤務先の社長に無理を言って1カ月の休みをもらい、1971年に視察目的で渡米しました。そういう発想は、子どもの頃に父親が国際的なものの見方を茶の間で教えてくれたおかげだと思います。
澁谷 : 単身・自腹での視察旅行は、さぞかしたいへんだったでしょうね?
中村 : 1ドル360円で、観光を含めて20万人くらいしか渡米していない時期でした。船なら11万円、飛行機なら15万円くらいの予算でして、20日もかかるけれど船にしようかと考える、まだそんな時代でしたね。当初は、有名なパーツメーカー、UCLAの研究所などを視察して、日本の関係者に土産話でもするつもりでした。しかし、蓋を開けてみると、金もないコネもない、英語も通じない、とにかく勉強したい気持ちだけが先走った命がけの視察旅行でした。
澁谷 : どのような先を視察したのですか?
中村 :
サンフランシスコの世界的パーツメーカーであるホズマー社のドアをたたきました。対応にでたホズマー社の白人の副社長Mr.フリータは、勉強したいという気持ちだけの私を歓待してくれました。英語はあまり通じませんでしたが、笑顔で一所懸命に気持ちを伝えました。帰りの時間が近づいた頃、次はどこに行くのか、と尋ねられました。ロスアンゼルスと答えると、Mr.フリータはウーンと言って考え込んで、机のなかからゴソゴソと名刺を探しだしてくれました。そして、「ここへ行けと、ここへ行け」と、ある会社名を何度も指差して強く薦めてくれたんです。それがサンタモニカのモダンオーソペティック社でした。
澁谷 : ホズマー社の副社長はなぜモダンオーソペティック社を薦めたのですか?
中村 : このままでは路頭に迷って死んでしまうと心配してくれたのでしょう。Mr.フリータのすごいプレゼントだったと思っています。彼に気持ちが伝わったのは、石見人※2の計算のない一途さと、英語力のなさだと思います(笑)。無鉄砲な変わり者だ、このまま放っておけないと思ったのでしょう。もし私が流暢な英語を話したら、それほど心配してくれなかったかもしれません。人間なにが幸いするかわかりません(笑)。まさに、とにかく世界を見よ、ということですね。
澁谷 : 初対面の方にサポートをいただくことが多いのですか?
中村 : アメリカでも、子どもの頃からの笑顔に助けられました。大森町では、中村屋のとんちゃんの笑顔は天下一品と褒められました。京都でも、仕事はさておき、いつもニコニコしているといわれました。私はどんなピンチでも笑顔がでるんです。その笑顔でいつも周囲から助けてもらっています。
澁谷 : Mr.フリータの推薦どおり、モダンオーソペティック社を訪問されたのですね。
中村 : 10~15人くらいのこぢんまりした工房でした。奥の仕事場から、「えっ、誰、なに、日本人?」と言いながら出てきたのが経営者のトシ・石橋氏でした。石橋氏は、和歌山県出身者の二世で、いかつくたくましく野武士のような方でしたので、最初こちらも身構えてしまいました。しかし、話をしてみると誠実・実直で、昔の日本人のような方でした。初対面で、しかも突然の訪問にもかかわらず、あなた誰、何しにきた、おお、よく来たね、という感じで迎えてくれました。
澁谷 : そのトシ・石橋氏とのご縁が中村社長のその後に大きな影響を与えるのですね。
中村 : 早々に失礼しようと思っていましたらトシ・石橋氏が、今夜君を迎えてやる、嫁の両親が近くに住んでいるので会ってみるか?と尋ねてくれました。ご両親は島根県の出身で名前も「島根」だというのです。おかしな話だと驚いて、私も島根県大田市の出身ですと答えると、「あっそう、では会ってみなさい」と言ってご自宅に招かれました。ご自宅では応接間に通され、島根岩造・綾子ご夫妻にお会いしました。「ようきたね」と優しく迎えてくださったのを覚えています。日本人一世なので、戦争中には抑留されたと思いますが、昔の方らしく、綺麗で実直、小柄で上品なご夫妻でした。
澁谷 : 島根岩造・綾子ご夫妻とはどのような話をされましたか?
中村 : お茶を飲みながら、「アメリカに何をしにきたか、中村さんはいくらお持ちなのか」と尋ねられました。自分は「金もなく働きながら600ドルのお金をつくって勉強にきた、すでに一部使ってしまったので500ドルくらい残っている、パンやハンバーガーで食いつないで数カ所をまわるつもりだ」と答えました。ご夫妻は、「アメリカは物価が高いから大変だよな」と言った後に、そばにいるトシ・石橋氏に、「トシ、こういう青年こそアメリカで勉強させてあげられたらいいなあ」と話しかけました。自分の両親より10歳年上のご夫妻の言葉に、時差ボケの眠気も吹き飛んで耳をそばだてたのを覚えています。
澁谷 : 島根岩造・綾子ご夫妻の言葉に人生の転機を感じたのですね。
中村 : 命がけで行動を起こすことがどれだけ大切か、ということです。勝算などない、一個人の思いに過ぎなくても、奇跡の扉は開きました。チャンスはどこにでもある、人間が念じて行動したら不可能はないと痛感しました。そして、地元や日本にはいなくても、広い世界にはちゃんと見てくれる人がいることを理解しました。それが23歳のときです。この経験は私にとって本当に大きかったですね。その経験が現在の自分をなしていると思います。
澁谷 : その後、もう一度渡米して、義肢装具の専門知識を本格的に勉強されたのですね。
中村 : 会社を辞めて渡米を準備したのですが、就労ビザがおりないのです。しかたなく観光ビザで飛行機の乗ってトシ・石橋氏に会いにいったところ、彼の尽力で研修生として長期滞在できることになりました。現地ではモダンオーソペティック社で実習する一方、いろいろな研究機関も紹介してもらいました。2年半にわたって世界のトップクラスの理論や技術を学び、日本人で初めて米国装具士補の資格を取得して帰国しました。
澁谷 : アメリカでの修行から帰国し、26歳で起業する際に、故郷の大森町で仕事することは最初から決めていたのですか?
中村 :
最初から決めていたわけではありません。父親の故郷に対する想いと母親譲りの大胆さをもって、今が決断のタイミングと思って実行しました。誰もやらないのなら自分がやろう、あたってみなければわからんという気持ちでした。大森町に戻って物をつくることは、地域の皆さんが愛情を注いで私を支えてくれたこの街で、世界の人々に喜ばれることをやって、皆さんの深い愛情がこうして生きていると示してみたかったことも動機のひとつです。

義肢装具の仕事に込めた思い

澁谷 : 中村ブレイスを設立されてからは順調に発展したのですか?
中村 : 最初はまったく仕事がありませんでした。腰痛もちの伯父が祝儀代わりにコルセットを注文してくれて、その12,300円が最初の売上でした。その伯父が「こりゃ軽くてええわ」と宣伝してくれたので徐々に注文が増えました。転機は創立10年後に発売したシリコーンゴム製のインソール(足底板)の大ヒットでした。欧米9カ国で特許を取得し、中村ブレイスの最初のベストセラー商品になりました。
澁谷 : 新しい義肢装具の開拓に力を入れていますね?
中村 : 義手・義足、コルセット、補助バンド、インソールなどに続いて、シリコーンゴム製の人工乳房や再生補正具を商品化しました。当社の人工乳房は内側が空洞ですが、欧米やスウェーデンではビニールで包んだジェル状のシリコーンを内側に入れるのが主流なのです。アメリカで最初に見たときは、なにか肉の塊のようで、乳がんなどで乳房を無くした患者さんの装具とわかりませんでした。
澁谷 : 日本では人工乳房はあまり普及していないように思いますが。
中村 :
今から35年前ですと、お洒落な下着がファッションとして普及し始めた頃で、日本でも当然に浸透していると思っていました。ところが日本に帰ってみると、人工乳房の話が聞こえてこないのです。下着のなかにスポンジや綿を入れる程度で、手術後のQOL(Quality of Life)というか、人の生きる喜びということではなく、形の問題にとらえられていたのですね。
澁谷 : 帰国してすぐに着手したのですか?
中村 : やりたいとは思っていましたが、予算的にも技能的にも無理でした。創業から15~16年がたち、いくつかのヒット商品が出て事業を続ける目処がたちました。そこで、私としては仕事の原点に戻ることにしたのです。平成3年の年末に、「来年からは女性の人工乳房を作りたいので準備体制に入ってくれ、正月の間に考えておいてくれ」と従業員に告げました。これまではほかの仕事に時間がとられ、社員も病院まわりに忙しかったのですが、みんな随分成長しましたし、ずっと暖めてきた自分の夢をようやく実現できる環境が整ったと判断して、商品化のGOサインを出しました。
澁谷 : 社員の皆さんはすぐに理解されましたか?
中村 : そろそろ自分たちでできることをやってみたいし、やらなければいけない、と考えました。しかし、社員はピンとこない様子でしたね。社長は頭がおかしくなったと思ったかもしれません。当時、乳房切除の痛みや喪失感がようやく公の場で言われるようになりました。私にすれば、いつかやらなければいけないと20年間ずっと暖めてきた仕事です。ほかの部位の製品をつくるたびに、ここをこうすれば人工乳房ができると、ずっと寝かして考え続けてきました。当社の製品はポッと出しているようにみえるかもしれませんが、20~30年寝かしているものばかりなのです。
澁谷 : どうして先行着手するライバル会社がなかったのでしょうか?
中村 : 大手の企業は大量の規格品の補正具は取り扱いますが、一人の患者にそこまでの製品はつくりません。中村ブレイスがやっているのは、個人の部位のリアルな再現です。手間、技術、時間がかかるわりに、宣伝にならず、量産もできないので、もっていれば赤字部門になります。正直にいえば、シリコーンゴム製の人工乳房や再生補正具は、今でも赤字部門です。
澁谷 : 赤字なのになぜ続けるのですか?
中村 :
伯父の腰痛コルセットの売上12,300円でスタートした私にとっては、お客様が100人、200人になれば上出来です。それが現在の規模になったのはある意味の奇跡です。それならば、最初の原点に戻って、皆さんに喜ばれることをしようではないかと考えました。最初のきっかけも、これはいいと伯父が喜んでくれたから、100人、200人のお客様に広がり、今の中村ブレイスになりました。人に喜ばれることをするのが私の原点です。喜ばれるものを売るのではなく、喜ばれることをやっている会社は生き続けると思うのです。私はいつも原点に戻るんです。 本物そっくりのメディカル・アート
澁谷 : 喜ばれることが中村さんの仕事の基本ということですね。
中村 : こんな補正具があったらいいなと思っている人に、島根の中村ブレイスで手に入るという情報が伝わるだけでもすごいと思いませんか。今まで探していたものが、例えば富士ゼロックスの記事で、中村ブレイスにあるとわかれば、私がアメリカで島根夫妻、トシ・石橋、Mr.フリータに人生のチャンスをもらったのと同じでしょ。その広がりは一人ではありません。喜ばれる行ないは人の気持ちや生きるうえでの可能性を広げます。それは損得の問題ではありません。
澁谷 : 身体の一部を失った患者さんには、力強いサポートになるでしょうね。
中村 : 今まであきらめていた全国の患者さんや家族は、入手できるとわかっただけで、失望感や不安感が緩和するわけです。病気やけがに向き合って頑張ろうと勇気がわくでしょう。乳がんも一期、二期とあって、発見されたときには家族と一緒にしゅんとするのです。でも、いつまでも泣いているわけにいかない、頑張ろうと考えます。病院の先生から病気自体は完治したと言われたときに、これから一緒に闘う自分の分身があると、その効果はお金にかえられません。患者さんや家族には、とても大切なことなんです。
澁谷 : 20年、30年暖めたアイデアでも、最低限のビジネスベースに乗らなければ実行すべきでない、という考え方もあるのではないでしょうか?
中村 :
義肢装具は福祉事業の性格が強い、手作りの地味な仕事です。患者さんは、永続したサポートを求めますので、儲かるかどうかの基準だけでは判断できない特殊性があります。つまり、儲かったから都会に移転するとか、儲からないから販売を打ち切る、といったことは難しいのです。それに、ニッチの産業です。欧米で名が知られるようになったと言っても、それほど大量に売れるビジネスではありません。ですから、わずかとはいえ、全国に平均して販売する売れ筋の商品を持つかたわらで、必要だけれど誰もやらない装具を、困っている患者さんに購入可能な価格で提供している現在の格好がベストだと思っています。
澁谷 : そうしますと、経営のバランス感覚が重要ですね?
中村 : 欲がないといえばないのですが、売れない製品があるのも義肢装具の性格上、やむを得ないと思います。販売が伸びない製品をどうやって成長させるか、経営者としては考えなければなりません。60人、70人の社員には給料も払わなければなりません。ある程度の社会貢献はしたい、十分な利益を出せる会社にしてみたいという思いや責任もあります。
澁谷 : オリジナル製品については多くの特許を取得しているそうですが?
中村 : 国際特許を含む50件の特許、50件の商標・意匠をとっています。しかし、その技術を使った製品で売上につながっているのはわずかです。発明・考案を権利化するのは、独占して利益を上げるためでなく、ニッチな産業なので、自分たちの発明・考案は他人の真似ではありませんということを知ってもらうためです。商品の広告に使うことはあっても、特許で技術を独占して有利に運ぼうと考えたことはありません。
澁谷 : 製品の販売体制はどのように構築しているのですか?
中村 : 直販のほか、全国600の義肢製作所に卸しています。おおかたの義肢製作所は従業員5~10人、家族1~2人の規模です。ですから自力だけでは限界がある、誰かが良い装具をつくったら扱いたい、というニーズは潜在的にあります。それで、創業のときから、同業者との共存共栄を自分のテーマにしました。ニッチの産業でも、全国600の同業者から注文が集まれば600になります。注文する方も、毎月何百個、何千個の注文であれば、あのときはブームで売れたが今年は駄目だということになりかねません。しかし、義肢装具は必要な人から必要なときに1個、2個と注文がある世界です。それが月に300、年に3,000と積み重なって、ようやく現在の規模に至っているわけです。
澁谷 : 直営体制の強化は考えなかったのですか?
中村 : アメリカから戻ったときに、自分の力だけでは何もできませんでした。最初は仕事がなく、どんな仕事でも全方位でやってきましたし、アメリカ、イギリス、ドイツも自分の仕事場と考えてきました。都会に出て直営販売すれば、それなりに売上も伸びたでしょう。しかし、大阪なら阪大系・京大系、東京なら東大系・慶大系などあって、そこでお世話になるとその枠から出られません。創業から10年くらいたった頃、特許を盾に直営体制で拡大せよと教えてくださる方もいました。しかし、それをしたら中村ブレイスは喜んでも全国の同業者の利益になりません。ニッチな産業なので、みんなに広く利益がわたることも必要なのです。
澁谷 : 同業者はライバル会社ではないのですか?
中村 : 私も若い頃は、京都の義肢装具製作所で、夜遅くまで、日曜日も出社して汗まみれで作業しました。自分が伸びるだけでなく、休日返上で夜遅くまで石膏まみれになって頑張っている仲間の手助けがしたい、義肢装具を明るいイメージの仕事にしたい、という気持ちで単身アメリカに渡ったのです。その原点を今もかたくなに守っているだけです。ただ売ることではなく、みんなが欲しがっているものを提供すれば義肢装具の業界が安定する、ひいては患者さんのメリットになると考えて、それを実践しています。
澁谷 : 同業者からはスタンドプレーとみられませんか?
中村 :
最初こそ「中村はよい仕事をやってくれる」といわれましたが、島根の山奥にいながら順調に伸びてくると、私をよく思わない同業者もでてきました。随分とたたかれましたね。いっときはひどくて、悪の権化のようにいわれました。義肢装具の世界では特許をとること自体が悪だというのです。それも自分の不徳の致すところだったと思います。先週、仙台で義肢装具士の大会があって、息子と社員が秋田、山形、岩手、宮城の23店に挨拶してまわりましたが、私の考えを理解して応援してくださる同業者が多いとの報告を聞いて安心しました。
澁谷 : 患者さんはどなたの紹介で中村ブレイスの製品を知るのですか?
中村 : 義足などは福祉事務所の紹介が多いです。コルセットなどは治療の一環として病院が紹介する場合もあります。障がいを負って何年かして障がい者手帳をもってからは市役所で紹介するケースもあります。
澁谷 : 患者さんは全国からいらっしゃるのですか?
中村 : そうです。人工乳房は東京事務所でも測定はできるようにしたのですが、こちらの方がなにかと安心だということで、わざわざ外国から大森町まできてくださる患者さんもいらっしゃいます。
澁谷 : 患者さんは義足に直接皮膚を触れるのですか?
中村 : そうです。だから汗対策が必要になります。でも日本ではあまり配慮されません。中村ブレイスでは、素材を研究して、軽量化や蒸れ防止に工夫をこらしています。気持ちよく使い続けてもらわないと意味がありません。
澁谷 : ヘッドギアは患者さん一人ひとりにあわせて作るのですか?
中村 : そうです。一人ひとり頭の大きさや必要な要素が違いますから、一点一点手作りしています。
澁谷 : ここは静かな工房ですね。
中村 : この第二工房では、人工乳房など、第一工房より細かいメディカル・アートという細工を行なっています。私の夢だった仕事です。他社では真似できないというより、ここまでやると、普通は会社が傾いてしまうでしょう。完成品をみると簡単に思えますが、一つひとつ石膏の型枠からつくる、気の遠くなるほど手間のかかる仕事です。
澁谷 : これらはサンプル品ですか?
中村 : 見本もありますが、途中でやり直したものもあります。患者さんの身体を観察して、シリコーンゴムの裏から書き込むのですが、なかなか一回では成功しないのです。特に肌の色は、そのときの健康状態や季節によって変わってしまうので再現が大変です。
澁谷 : メディカル・アートのネーミングはどのような理由でつけたのですか?
中村 : 義肢装具は本来、歩く、つかむといった機能の回復を目的としたものです。肌の色とか美的な感覚は不要とされてきました。しかし、あえて美的で微妙なところまで挑戦することが、義肢装具の世界を広げる、明るくすると考えました。従来の義肢装具より明るい印象のものを作りたかったのです。お母さんが隠していた指を気にせずに振る舞う、子どもがためらっていたサンダル履きでプールサイドを走り回る、といったことで家庭が明るくなるでしょ。患者さんや家族の人生の可能性も広がります。だから、アートはハートに通じるという想いを商品名に込めました。アメリカでの修業時代から20~30年暖めてきた夢を、仕事も軌道に乗り、社員も成長して、いろいろ考えてくれるようになったので実現しました。
澁谷 : 製作の期間や代金はどのくらいかかるのですか?
中村 : 人工乳房を例にとれば、他の仕事と並行しても最低1ヶ月はかかります。価格はオーダーで9万円から20万円の範囲です。おそらく、外国製品の半分くらいの金額ではないでしょうか。患者さんは、子育てのなか自分の装具にお金はかけられません。だから、あまり高いことはいえません。皆さんのおかげで会社がなんとか利益をあげるなかで、その一部を患者さんにプレゼントしたいと思ってやっています。
澁谷 : 次々に難しい仕事の依頼があると思いますが、作り方はどのように開発されているのですか?
中村 : 担当者と指導的立場の社員が相談しながら考えています。透明なシリコーンゴムに内側から色を塗っていきます。外から塗ると楽ですが、すぐに色がはげてしまうのです。それだけ根気のいる仕事なんです。社員の顔を見てもらえばわかりますが、みんな無欲、無心でやってくれています。それでどうこうしようというわけではありません。それが写真にも出ますね。オーナーの私が言うのもおかしいですが、本当に根気よくやってくれます。こうしてお客様を案内していると、改めて一人ひとりの仕事の深さや成長を認識しますね。それと同時に、みんなが喜んでやってくれる環境づくりをしなければいけないと痛感します。
澁谷 : 乳房を切除される心身の痛みは女性にしかわからないでしょうね。
中村 : 男にはわからないですね。最初は、さあ型を取りましょう、とやっていましたが、現在は女性社員にお願いしています。すごく微妙な問題なんです。患者さんの気持ちを考えて粘り強く対応することが必要です。最初は、始めたもののどうしようかと悩むこともたくさんありました。今はみんな習熟して難しい仕事がきても、独自に工夫してくれます。彼女らがつくる人工乳房や再生補正具で患者さんの家庭が音楽のように明るくなるでしょ。だからアートと名付けたんです。
澁谷 : 中村ブレイスの人工乳房や再生補正具を知らない患者さんもまだいらっしゃるのですか?
中村 : 中村ブレイスで人工乳房や再生補正具を作っていることを一人でも多くの患者さんに伝えられたら、一つの記事が飛んでそれを知ってもらうだけでも、どれだけ救いになるかと思います。記事にしてもらうことは、中村がいい格好をしてと、やっかみを受けることもありますが、困っている患者さんに一人でも多く伝えるうえで大事なんです。それで積極的に取材もお受けしているんです。儲けや名誉ではありません。本当に困っている人に伝えることが大事なんです。損得ではありません。
澁谷 : このビニール袋のついた装具は何ですか?
中村 : これが当社の切り札の人工肛門用装具です。日本では大腸がんの患者さんが30万人前後います。今後5年くらいで普及して、患者さんの福音になると考えています。欧米の従来品は、ぺたっと肌に貼り付けるタイプです。非常に機能的ですが、ランニングコストがかかることと、皮膚の弱い患者さんはかぶれることが難点といわれています。当社の製品は袋をかえるだけで費用も低廉ですみます。器具も洗えます。皮膚の弱い人には特に喜ばれますね。
澁谷 : シンプルですし、普及しそうですね。
中村 : おそらく5年後くらいにブレイクして、中村ブレイスの第三の成長期を支えてくれるのではないかと期待しています。この製品は世界にも通用します。欧米の従来品と両方持っていれば安心でしょう。生活用と外出用との使い分けも可能です。それに、この袋は一般市販品でも代用可能です。二カ所で引っ張るので袋が抜け落ちません。そうすることで体に密着するんです。最初は袋の音がすると苦情がありましたが、今は改善しました。これも34年間アイデアを暖めていた商品です。既に200~300名の患者さんが使ってOKを出してくれています。
澁谷 : これまで拝見した手作りの義肢装具とはかなり異なりますね。
中村 :
量産品なので、一つの産業としての地域おこしができるのではないかと期待しています。お医者さんは特定の商品の宣伝になることは嫌うんです。命を助けたら、お医者さんの段階は終わり、というのが一般的です。ですから病院の紹介は思ったより少ないですね。でもこの製品は薬店でもコンビニでも販売が可能です。そこまでいくのが私の夢です。

地元の大森町・石見銀山とともに

澁谷 : 島根県教育委員に就任された背景を教えてください。
中村 : 私は地元大森町に支えられて仕事を続けられたので、その分を地域に貢献しなければいけないと思っています。1999年から2007年まで島根県教育委員に任命していただきました。当時の澄田島根県知事が石見銀山をユネスコ世界遺産に推すなかで、私に白羽の矢を立ててくださったのだと思います。その期待に応えようと、教育委員を精一杯務めました。最後の5年間は教育委員長として、列車で片道100分の松江市に日帰りで500日くらい通いました。
澁谷 : 石見銀山の古資料の収集にも尽力されているそうですね。
中村 : 石見銀山は大正12年に休山していますので、大事な資料が東京にいったり、水害を受けたり、焼いてしまったりしています。世界遺産登録の一助になりたいと考え、全国や海外に飛び散っている資料や銀山に関係する国際的な文化財を、ご縁があれば一点一点譲っていただきました。会社も利益が出て私も給料もいただくようになりましたが、家内や息子に言わせると、そのほとんどを石見銀山の資料収集に費やしているそうです。今にとんでもないことが起こるかもしれませんね。「世界遺産に登録されたから死んでも本望だ、知らんよ、あとは面倒なんてようみんからね」と家族には言って笑っています。
澁谷 : 中村さん個人の想いでそこまで行なわれているのですね。
中村 : 私個人というより地域の方々がそれくらいの気持ちでいたからこそ、大切な石見銀山を守ることができたと思います。最初から国や県を頼るのではなく、石見銀山の入口に住んでいる私たちにやれることがあれば一所懸命やっていることが、文化庁やユネスコにも伝わったのではないでしょうか。ユネスコ事務局長の松浦晃一郎氏は、代官所跡の資料館なども丁寧に見てくださいました。私は今でも松浦氏の名刺をお守りがわりに持って歩いています。
澁谷 : 中村さんは楽観主義のフィルタを通して人生を再構成されているように思います。いいことばかりではないから浄化して次のエネルギーに転換する。その浄化機能が強靭だと感じました。だから、めげるような経験も浄化されてしまうのですね。
中村 : 恐れ入ります。そう言っていただくと嬉しいですね。昨年の5月12日に石見銀山の世界遺産登録の延期勧告が出ました。その半年前まで教育委員長として外国人の審査官を連れて歩きました。次はニュージーランドで会いましょうと言って、出雲空港で握手して別れたのです。そうしたら延期勧告の知らせが届き、私は立っていられないほどショックを受けました。結果はC評価で、合格まで二段階足りませんでした。県職員から発表資料がファクシミリで送られてきましたが、どの項目も不合格でした。何項目も不合格の連続だったので、それを見て3分間は目の前が真っ暗でした。
澁谷 : まさに万事休すの状態ですね。
中村 : だが待てよ、と思いました。ほとんど合格なのに致命的な欠点があれば絶望的ですが、全部不合格なのはいいことではないかと考えたのです。審査官はオーストラリアの生粋の建築家なので、地味な鉱山遺跡を評価できないだけだと考えました。それで残りの1カ月間、できることをアピールしました。マスコミが私のところにきて、「勝算はあるか」と尋ねるので、「ある、大丈夫だ」と答えました。家内が心配して、「お父さん、何を根拠に言うのか」と聞くので、「何か知らないがこういうときには力が湧くんだ、松浦局長や大使の名刺が守ってくれる。」と笑い飛ばしました。
澁谷 : めげないという次元を超えた精神の強さを感じますね。
中村 : アメリカで奇跡の出会いをさせてもらいましたが、切羽詰ったときが自分の真骨頂だという気持ちがします。アメリカの修業時代、英会話の帰り道でひき逃げにあったときも、霊安室から生き返りました。治療費も保険もない、大変なことになったと思いました。しかし、轢いた人を恨むより、生かしておいてくれたことにありがとうと言えばいいと思いました。全然マイナスに思わず、これから絶対いける、これからが自分の生き方をできる、と考えました。日本の両親に電話すると心配するので黙っていました。ひと月したら多少手が動いたので手紙を書きました。時々両親に小切手で小遣いを送っていましたので、送金が届かず心配するといけないから、事実を知らせて大丈夫とだけ書きました。
澁谷 : 楽観的な観測にマスコミの記者も驚いたでしょう。
中村 : 何もない男ですが、経営者に明るさは大切です。マスコミは概ね否定的でしたが、日本経済新聞さんは、「中村さん、何かあったら応援するから」と言ってくれました。島根県は政治力の強いところですから、有力な政治家が発言すれば方向が決まってしまうのですね。「強気な言動の背後にどの政治家がいるか教えて欲しい」という笑い話のような質問も受けました。正直に、「絶対のバックはないが、自分の信じるところをやっている。」と答えました。
澁谷 : 中村さんの強気を支えてくる支援者もたくさんいらっしゃるのでしょうね。
中村 : 何でもそうですが、皆さんが応援してくれようとしているときに、当人がやる気をなくしていたら、誰も応援しよう、ひと肌脱いでやろう、と思ってくれません。近藤ユネスコ大使やパリの松浦ユネスコ事務局長も、中村苦しいだろうな、と思ってくださっていたはずです。みなさんのそういう気持ちを考えると、私がめげるわけにはいかなかったですね。
澁谷 : 最終的には、2007年7月2日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されたユネスコ世界遺産委員会で、日本で14番目の登録が決定しましたね。
中村 : 一筋の光明を求める気持ちでクライストチャーチに家内と一緒に飛び込みました。近藤大使や文化庁の部長に廊下でお会いしたとき、「石見銀山は大丈夫だと思います」と言いましたら、お二人は、はぁっ?という顔をされました。それというのも、演台横のポスターに植物のシダの葉っぱがシンボルマークとして書かれていたのです。
澁谷 : シダの葉っぱ?ですか。
中村 : マオリ族が大事にするグリーンストーンの地表にはシダの葉っぱがある、という言い伝えに由来するそうです。実は石見銀山もシダの葉っぱの下に銀がでる、山師たちは植生や竹を見て探した、という資料が残っているのです。そのシダが大会のシンボルとして掲げられていたので大丈夫と感じたのです。それを近藤大使に言ったら、再び、はぁっ?という顔をされましたよ。自分達は必死なのに中村は面白いことを言う奴だと思われたのでしょう。私は地元民間人の応援隊として家内と一緒に会場に入れてもらったので、何でも言いやすかったのです。
澁谷 : 登録延期報道から一転して正式登録へ、日本中が沸きかえりました。日本の社会では落選が個人の失態になるのに、そこを楽観主義で乗り越えたのはすごいですね。
中村 :
たくさんの応援を全国からいただきました。7月3日に帰国するなり、アルゼンチンのジェトロ、イギリスのアイアンブリッジの館長、パリの松浦ユネスコ事務局長からお祝いメッセージが届いていました。パリの松浦氏からは6月28日付のメッセージが届いていました。よほど気にしてくださったのだと、頭が下がりました。

会社の成長とCSR

澁谷 : 会社の成長はジグザグですが、成長のチャンスと見極める経営者の能力はどこから生まれるのでしょうか?
中村 : それは自分のコンピュータではないかと思います。経営者だけのコンピュータかもしれません。また、ある面では、それを私がやってきたかどうかは別として、血のにじむような経験や、小さいときから転がってきたなかでの自分の判断でもあるように思います。
澁谷 : 富士ゼロックスでは、「強い」「やさしい」「おもしろい」をよい会社の基本要素と定義しています。特に、社員がわくわくしなければお客様に感動を与えられないと考えます。
中村 : それも大事なことでしょう。そうしないとパワーがでませんね。我々の1.7~1.8倍の体力をもつ欧米人とでは圧倒的にパワーが違います。余力をもってする欧米人の仕事と、夜1時、2時まで頑張らないと追いつかない日本人の仕事とでは、そのままでは能力の差が生まれるのは当然です。日本の社会が個人を大事にするように変わったときに知的なものが進んでくるかもしれません。やり方ひとつで日本には可能性があると思います。
澁谷 : ところで、中村さんはCSRという言葉をご存知ですか?
中村 : 最近よく耳にします。でもまさに、若いときから中村俊郎のなかで考えてきたことにほかなりません。それを教えてくれたのが父親です。それをやってみたくて大森町に帰ってきたわけです。昔は、企業は企業、街は街で、社会貢献など悠長なことを言っている会社は傾くと考えるのが普通でした。それが日本では主流の考え方だったのです。その結果として、これだけ歪みや問題が目立つ社会になってしまいました。社員や人を大事にする企業によって国が栄える、自分を大事にしたうえで仕事を大事にする、それに戻ることが基本だと思います。それに外国の方々も気づいてCSRとおっしゃるのでしょう。
澁谷 :
CSRを輸入物のように言いますが、外国の人の指摘で日本企業もやってみたら、自分たちの足跡をぐるぐるっと一周まわったに過ぎない、という感じがします。中村さんのお話を聞いていると、CSRと論じるのがばかばかしいほど当り前に思えてきます。家庭でものの見方を教わり、それで豪胆に人生を切り開く。仕事や会社は夢の実現手段として利用する、というお話は、ちまたのCSR論に欠けている大事な点を教えてくれると感じ入りました。
中村 : 私の会社は、大学や専門学校ではありませんが、夢を語り、誠実さを押し出し、若い人を育てる私塾でいいと思っています。夢を実現するには30年、40年という年月が必要です。そのためには人を大事にすることが基本だという考え方が世界に広がってきた、それをみなさんがCSRと呼んでいるように思います。
澁谷 : 人を大事にするのがCSRというお考えですね。
中村 : 自分の若い頃を考えても、アメリカで島根夫妻に与えられた糸口を自分は誠実に受け止めました。自分は能力がないから誠実に素直に聞こうとしました。自分の能力ではすぐに実現できなかったです。しかし、それを心のなかで燃やし続けていれば、何かのきっかけやヒントを与えられたり、自分の成長とともに少しずつできたりするではないか、それには30年、40年かかるかもしれないが、それでもいいではないかと思うのです。そうした少年の心を持ち続けることもCSRではないでしょうか。
澁谷 : 中村さんは、そうしたねばり強さと社会に支えられた感謝の気持ちで、社会の歯車の一つとして会社を経営されてきたのですね。
中村 : 私は頭がよくありません。勘だけで生きています。それができるのは、いつも誰かに支えてもらっているからだと思います。私は無宗教に近い人間ですが、「皆さんのお蔭で」と母親が口癖のように言うのを聞いて育ちました。会社も同じです。若い社員は、地域の方々が中村ブレイスに何の貢献をしてくれているかと思うかもしれませんが、世界遺産の入口、代官所跡の隣、米蔵の跡に工房を持たせてもらったこと、私が帰るのを待っていてくれたかのように、竹工房が10年間の橋渡しの時期を支えてくれたことは、つくづく地域の皆さんのお蔭だと思います。地域の皆さんから嫌われたら、創業から10年間、私がよれよれのときに誰も待っていてくれなかったでしょう。
澁谷 : 中村社長が心の声に素直に従って、自然にやっておられることが、他人からも誤解されず、多くの方の支持を得ているゆえんではないでしょうか。
中村 : お褒めいただき恐縮です。でも、周囲からはたくさん誤解されます(大笑)。自分も叩かれれる一方で、社員にも厳しいことをいいます。先日も国際展示会で同伴の社員を大叱りしてかわいそうなことをしました。それでもプラスに理解して前進してくれるので助かります。叱るときは自分の感情を押し出してビシッと叱ります。だけど30分したら、さっきは何を言ったかな、と流します。これは母親譲りですね。
澁谷 : 今後、中村さんのお考えを息子さんが継がれるのですね。
中村 : 31歳と27歳の二人の息子が東京の大学を卒業した後、義肢装具士の道を選んでくれました。海外の案件も増えたので、若い息子に手伝ってもらうつもりです。自分はこれからも夢を語るだけですよ (笑)。

次の世代を育てる

澁谷 : 若い社員をどのようにして一人前の職人に育てるのですか?
中村 : いろいろな仕事を経験してもらいます。一人前の義肢装具の職人に育つのに20年は覚悟しなければなりません。ほったらかしていますが、みんな自分で上手になってくれます。私はいらんことをときどき言うだけです(笑)。社是は一言”Think”です。社是のとおり、ほんと、うまいぐあいに育ってくれます。
澁谷 : 20年と聞いて驚きました。育てる方が腹を据えないと人は育たないということですね。
中村 : 途中で辞める子もいるので、なんのために育てているのか、私も最初は悩んだこともあります。理屈より明るい子どもの方が率直に仕事に反映するかと思って、10年くらい前から高校野球の経験者を積極的に採用するようになりました。そうはいっても、デリケートな部分はほかの社員と変わりません。そこで作業している社員は大田市の高校で野球の四番を打っていました。私は中国大会で太鼓をたたいて彼を応援しました。春の甲子園にも出場し、卒業後、中村ブレイスで働きたいと言ってくれました。
澁谷 : この若者は伸びると信じる力はどこから生まれますか?
中村 : 最近思うのは、この土地は石見左官といって、コテ一つで芸術的な細工をする左官を輩出してきた歴史があります。国会図書館、上海領事館、京城門などの飾りは石見左官の職人によるものです。これまで、もっと早く覚えろよと言って、叱り飛ばしてきましたが、うちの社員もそういうDNAをもっていることに最近気付きました。左官職人は15歳から一生をかけて仕事を覚えるんですからね。
澁谷 : 昔からそういうお考えですか?
中村 : この2月20日で60歳をむかえ、そういったことに気付くようになりました。50代半ばまでは社員のDNAなど考えなかったですよ。それが最近では、これまではこてんこてんに言ってきたけれど、考えたらみんなすごい素質をもっていたんだな、それに気付かなくてごめんな、すぐに成果を出さんでもよいからくじけけないで頑張りなさいよ、みんな大器で今は土をこねている段階だと思えばいい、と考えるようになりました(笑)。
澁谷 : そういう中村さんのゆとりは救われる思いがします。
中村 :
技術や作業を習得したうえに、さらに患者との気持ちのやりとりもあるわけです。子どもの患者から、ほかの人では嫌だ、あのお兄ちゃんやお姉ちゃんならやってほしい、といわれれば、それはひとつのプロでしょう。どれだけ格好良く作っても、患者さんに合わなければ駄目ですしね。いろいろな仕事を経て成長するには時間もかかるということですね。 型に石膏を流し込みメディカル・アートを製作する
澁谷 : 社員が義肢装具士の専門学校に通うことを会社で支援されるのですか?
中村 : そういう必要が生じれば考えたいと思います。現在は、自己負担で3年間専門学校に通ってもらって、そこを卒業した人に入社してもらうルールにしています。奨学金制度も考えましたが、かえって束縛になるし、自分が成長して途中で気が変わる人もいるので導入していません。私のときとは時代が違うのだと思います。
澁谷 : 中村さんの経験を次世代に継承することが重要ではないですか?
中村 : 2008年2月に埼玉県の渋沢栄一財団から第6回渋沢栄一賞をいただきました。明治時代を象徴する渋沢先生の一途な地域愛、起業家精神、哲学を実践していると評価してくださったようです。ありがたいと同時に責任を感じます。でも、中村個人の受賞と思っていません。60人~70人の社員が私についてきて、山の中でコツコツとやってくれました。今回は、全員でつくってきた中村ブレイスに素晴らしいプレゼントをいただいたと感謝しています。
澁谷 : 石見銀山の世界遺産登録を社員の皆さんとどのように分かち合ったのですか?
中村 : 石見銀山の入口でこつこつと仕事する中村ブレイスの社員が、大森町・石見銀山再興に何パーセントかの貢献をしている、あなたたちがいてくれてよかった、という地域の声があると感謝しています。社員は技術者だから毎日黙々と仕事を続けるだけです。石見銀山の世界遺産登録も、こうした社員に対する大きなプレゼントと、ありがたく思っています。
澁谷 : 中村さん御自身の気持ちをどのように表現されましたか?
中村 : 世界遺産登録1周年の6月28日に、中村ブレイス石見銀山文化賞の第1回表彰を行ないます。世界遺産登録に際しては、溝口島根県知事や近藤ユネスコ大使をはじめ、たくさんの方々が積極的に動いてくださいました。その感謝の気持ちを込めて、私企業の表彰ではありますが、石見銀山文化賞を設けました。これは45歳くらいから暖めてきたアイデアなのですが、いろいろな解決すべき問題があってなかなか実現できませんでした。ようやく実現できる運びとなりました。
澁谷 : 石見銀山文化賞は中村さんの考え方がすべて反映されているように感じます。
中村 : 単に石見銀山の支援への感謝だけでありません。どんなに小さな企業でも、世界のどの地域にあっても、思いと努力、そして思いがけない人々の応援、本やメディアでの紹介、そうした御縁があって「今」があります。「今」への感謝の気持ちを形に表したのが石見銀山文化賞です。決して高額な賞金ではありませんが、自分たちができる範囲のことを20年、30年と続けられることが、中村ブレイスの健全経営のバロメータになると思います。これは企業の活動としては異例かもしれませんが、次の世代にも継承してもらいたいですね。
澁谷 : 第1回の受賞者はどなたですか?
中村 :
京都国立博物館室長の村上隆先生です。村上先生は日本の金属学の権威で、若い時からのご指導、ご支援に感謝して贈呈しました。もう一人、石見銀山の原点である銀峯山清水寺に特別賞を授与しました。夜中にこの授賞を思いついたときは家内を揺り起こすほど嬉しかったです。清水寺は住職が99歳で亡くなられた後、坊守の奥様も2週間前に95歳で亡くなられ、現在、無住職になっています。400年にわたって貴重な宝物を守ってこられました。私が子どもの頃、丁寧に宝物を見せてくれたり、銀山の歴史を教えてくださったりしたお寺です。横浜にお住まいの息子様に特別賞の贈呈をお話したところ、たいへん喜んでくださいました。病床のお母様も非常に喜んでくださったそうです。県や文化庁が表彰してもよいのですが、私としては自分をこれまで守ってくださった、自分自身の感謝の気持ちから贈呈させてもらいました。 中村ブレイスの本社屋
澁谷 : ところで、ずいぶんたくさんの部屋がつながった社屋ですね?
中村 : 町並み保存条例で新規の建造物を建てられないので、建物も継ぎ足し継ぎ足しになってしまうのです。規制が厳しいので今風の建物は建てられません。窓に格子を設けたのも、街並みの風情を考えての措置です。父親が役場の人間として街づくりを推進してきた影響もあって、街並み保存条例の施行前でしたが、自主的に地域への配慮として造りました。私は喜ばれると思ってやったのですが、市の行政には違う考えがあったようです。

故郷の宝を保存する

澁谷 : (本社屋から少し離れた建物の外観を見て)すごく歴史のありそうな建物ですね。
中村 : 築100年になる大田市の山陰合同銀行の建物が解体されるという新聞記事を見て、私が引き取りますと一時間後に申し入れ、ここに移築しました。この場所はトンネル工事のわきにある田んぼの窪地でした。「なにに使うのか」と尋ねられたので、「今新聞を見てきたところなのでわからない、これから考える、とにかく築100年の建物を藻屑にしてはいけないと思う」と答えました。当時の熊谷大田市長も、「中村がそういうなら譲ってやれ」と応援してくださいました。
澁谷 : (建物内部に入って)素晴らしく落ち着いた雰囲気の空間ですね。
中村 : 会社の施設ではありますが、世界遺産の来賓接待、知事の対談、レセプション・パーティーなどに使ってもらい、たいへん喜ばれています。これは中村ブレイスのみんなのパワーの賜物です。私の欧米での経験から、こういうスペースも必要ではないかというイメージでつくりました。当初は世界遺産登録を地元の人間として応援するために、文化庁の調査作業のスペースに使ってもらおうと考えましたが、実際にはそこまでは使われませんでした。将来、会社が成長して、コミュニティやネットワークの場として活用してもらうことも考えています。2階の天井の梁を見てください。やはり明治の建物ですね。樹齢800年くらいの松を15mの直線で使用していいます。これを焼いてしまうところだったので、残すことができただけでもよかったと思います。
澁谷 : 世界遺産登録に間に合うよう、突貫工事で準備されたのですか?
中村 : 2000年の時点では散々たる状態でした。家具なども一気に揃えたわけではありません。なにしろ、家内に内緒ですから(笑)。家内が見向きもしてくれないので、こつこつとやっている。それでもやるから、家内もあきらめてしまいました。建物ができた明治37年は中村の父親がこの世に生を受けた年です。「なんやかやと理屈をつけて好きなことをやる」と家内が言うので、「文句を言うなよ」といったところ、なんと移築した大正12年は家内の父親の生まれ年だったのです。「そうだろ、なんか縁があるんだよ」と言い返して笑いました。いつも勝手に物語をつくって楽しんでいるんですよ。
澁谷 : 隣の建造物も、いわれのありそうな建物ですね。
中村 : 建物を譲り受けたニュースをみた仁摩町の大連酒造さんが築150年の酒蔵の譲渡先を朝日新聞で募集されたのです。できたら大森町に持っていってほしいと書いてあるんです。それでは地元で歴史のある酒蔵を譲り受けて、そこで最先端の装具等をつくってみようではないかということになりました。私は酒蔵を託す持ち主の想いを大切にするため、一緒に譲り受けた大きな酒樽を飾っています。せめて、150年の職人のDNAを伝えていかなければ申し訳ないと思って置いてあるのです。酒造りは生き物です。中村ブレイスの製品も生き物のレベルに到達するのが究極の目標です。そこまでいけるかどうかはこれからの努力次第ですが、中村ブレイスの一つのテーマを示しているわけです。
澁谷 : それでは収集資料を拝見させてください。
中村 : ここに集めた資料は、自分の趣味というよりも、全国に散逸している地図、絵巻、古文書を石見銀山に取り戻して返しておこうという気持ちで始めたものです。世界遺産というのはそういうものだと思います。そういうみんなの思いがないと、ただ、やってくださいというのではだめでしょう。
澁谷 : 石見銀山の資料は鉱山会社や地元機関に保存されていないのですか?
中村 : 佐渡金山(三菱)や別子銅山(住友)は資料が集まっていますが、石見銀山(同和鉱業)は散逸していたり、処分されていて、意外と物が残っていないのです。世界遺産となると、あるはず、どこかにある、ではすまされません。父親が好きだったうえに自分の趣味と収集癖もあって、東京から絵巻を取り寄せたことがきっかけで、一つひとつ集めました。これもどうですかという格好で、銀山資料関係のいい仲間が増えていきました。最初は年に一つ、二つのペースでした。石見銀山だけでなく世界の鉱山資料も集めています。
澁谷 : 石見銀山の価値はどこにあるのでしょうか?
中村 : これは石見銀山をアピールできる1570年の欧州の古地図です。ここに銀鉱山と書いてあります。1570年の時点で、西欧諸国に対して日本を代表する場所になっているのがわかりますね。西欧の商人や宣教師たちは石見銀山を目指してやってきました。石見銀山は地味だといわれますが、世界史的な意味ではすごいのです。日本、東アジアの歴史、大航海時代を動かした原点は石見銀山と言っても過言ではありません。石見銀山が記されている古地図は世界に50から100残っていると言われています。印刷に色づけしているので、色合いが多少違うんです。
澁谷 : 出雲歴史博物館も銀山資料館も銀や技術の展示だけで歴史の説明がありませんでした。こうした説明は説得力がありますね。
中村 : キリスト教から説明に入ると面白いし、世界遺産登録でヨーロッパの人の投票がもっと入ったかもしれませんね。こちらは1550年頃のアジアの地図です。当時は国家機密だったようです。インドの東には胴体に犬の顔のある怪物が住んでいるでしょ。極東に対する西欧の認識はこの程度だったのですね。それが20年後には宣教師による正確な地図ができています。だから、そのきっかけとなった石見銀山は世界史的に貴重なのです。こういう世界史の中から石見銀山の意味を伝えることが大事だと思います。資料が何もないと言われると悔しい思いをします。ひとりで青筋を立て反論するわけにもいかないので、こうして資料を揃えておくことが大切です。一ひとつひとつ集めた資料ですが、みなさん結構驚かれるんです。
澁谷 : この原書や絵巻物は見事ですね。
中村 : これは1570年代のイエズス会の日本に関する宣教師による報告書です。これは世界遺産登録の切り札になるかもしれないと買っておいた1494年印刷のストラボン※3の地理学書です。こちらは1556年のアグリコラの鉱山学の原書「デ・レ・メタリカ」です。これが石見銀山の唯一の絵巻で坑道の様子がわかります。石見銀山の坑道資料はないと思ってあきらめていたのですが、私が40歳のとき、東京で売りに出ていると島根医大の教授が教えてくださいました。石見にはなくても東京にある、これからは注意してみておこう、これも私の仕事かなと考えました。それが、これだけの収集物になったわけです。
澁谷 : 石見銀山の坑道はどれくらい残っているのですか?
中村 : 間歩(まぶ)※4は600から700ありますが、ほとんど解明されていません。最近話題の大久保間歩は、明治・大正に入って爆破しているので穴は大きいのですが、私はあまり感心していません。石見銀山の魅力は六尺・三尺の穴を人力でこつこつ掘っていった人力のすごさ、尊さにあります。自分の経験と体力、神仏への祈りで掘られた坑道が土のなかで600から700も眠っているわけです。それを大したことないという方もいらっしゃるが、私は逆だと思います。それが世界遺産の原点です。ドイツで古い銀鉱山を見てきましたが、最後は爆破で大きくしているので、歴史的な意味は薄れていました。これは採掘・精練された初期の切銀です。当時は小さく切って使っていたことがわかりますね。
澁谷 : 立派な絵巻ですね。
中村 : これは二代目広重による佐渡金山の絵です。こちらは生野銀山※5の絵巻ですね。パリの元大使館員の住居に飾ってあったものを購入しました。盗難対策の目的で風呂に入れて髪の中を調べているでしょ。生野銀山の絵巻はほとんどありません。石見銀山の絵巻も全国で7巻しかなく、うち3巻を私が保有しています。先日、旧開発銀行の副総裁がいらして、出身地である伊豆・大仁金山の資料を見つけて喜んでいらっしゃいました。
澁谷 : 教科書でみたような資料もありますね。
中村 : これは1774年の解体新書※6の原本、中村ブレイスの仕事の原点です。日本で7~8冊残っています。それから整骨・整体術はどうも石見銀山からもスタートしているらしいのです。萩・石見を経由して名古屋で焼き物を広めた明代の陳元贇(ちん・げんぴん) ※7という方がいます。その方が日本の整骨・整体術の始祖です。その方が石見銀山に滞在し、その代官所跡に中村ブレイスが開所しているのも、歴史上のなにかの因縁と文章に書いてくださった方がいらして感激しました。そちらは二宮彦可の著書です。義肢装具の原点として少し無理して購入しましたが、結果的にはよかったと思っています。これは秋田の阿仁銅山の行列風景です。石見銀山でも同様の行列が行なわれたのではないかと想像がつきます。これが1630年代の石見の地図です。現在の地名が見て取れるでしょ。地名が変わっていないのは嬉しいですね。
澁谷 : こういう資料があると、土地の人が世界に出てもひるまなくなる、世界に通用する土地の出身として誇りをもてると思います。是非多くの方に公開してほしいですね。
中村 :
私は代官所跡の銀山資料館の理事長でもあり、ここの資料を少しずつ展示しなければいけないと思っています。お金がないと言いながら、家族に内緒で20年間こつこつためたので、先日、大叱りされました(笑)。でも、これは私が買ったものかも知れませんが、どれも地域の宝です。国際的なものの見方を理解したり、知識を広げるヒントを提供したりする場所になればよいと思っています。これらが東京や大阪にあっても輝きはありません。知らない人は一括して購入したのかと尋ねますが、20年間こつこつと、自動車などを買うお金を回しながら、震える思いで集めたんです。今日乗っている自動車も実は15年乗っているんです。本当に一つひとつ興奮しながら集めたもので、いま資料集を作り始めたいと思っているところです。この部屋には自分の好きな鉱山や地図関係の資料だけ置いてあります。こうしたことは大事な地域貢献、社会貢献だと思っています。でも、これ以上広げると家族に叱られます(大笑)。 中村氏と澁谷氏

編集後記

実に爽やかな取材だった。夢に対する熱い想い、豪胆な決断と命がけの苦労、お世話になった方々への感謝、社員や地域の人々に対する愛情、いわれなき批判への忍耐。約5時間におよぶ取材中、中村俊郎氏の口から宝石のような言葉が次々と溢れた。取材の終了後、次の仕事に向かった中村氏に代わって我々の銀山見学を手厚く面倒みてくださったのは仁美夫人だった。「主人が暴走しないようブレーキを踏むのが私の役目」とおっしゃる屈託のない笑顔が爽やかだ。夢を追い求め、やんちゃ坊主のように飛び回る60歳の中村氏と控えめに寄り添って支える仁美夫人。愛情深い素敵なご夫妻が山あいの街で育んだ奇跡の物語。(S)

中村俊郎氏

1948年生まれ、島根県出身。18歳で義肢装具士の道に入り、本場アメリカで2年半勉強して米国装具士補の資格を取得。1974年、故郷である島根県大田市大森町で中村ブレイスを起業。現在、社員65人。島根県教育委員長など要職を歴任。地元石見銀山の資料収集や歴史的価値の普及啓蒙にも尽力。2007年、石見銀山は日本で14番目のユネスコ世界遺産に登録された。

中村敏郎氏

中村ブレイス株式会社

1974年に義肢装具製作所として創業後、新素材や新技術を取り入れた義肢装具や医療器具を独自に開発・商品化。所在地は島根県大田市。平均年齢31歳の社員65名を擁する。数多くの特許権や意匠権を保有し、輸出先は20カ国におよぶ。

URL:http://www.nakamura-brace.co.jp/

※1 石見銀山(いわみぎんざん)
戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。最盛期は世界に流通する銀の三分の一が石見銀山産だったといわれる。当時の操業の様子を残す銀鉱山本体と鉱山町や山城跡などが2007年7月、日本で14番目のユネスコ世界遺産として登録された。
URL:http://ginzan.city.ohda.lg.jp/center/index.html
※2 石見人(いわみじん)
島根県中西部出身者のこと。現在の島根県は、昔の出雲国(東部)と石見国(中西部)、さらに隠岐国からなる。
※3 ストラボン
紀元前63年頃-紀元23年頃。古代ローマ時代の地理学者・歴史家。その著作『地理誌』は地域別に地理、風俗、史実、神話を伝える古代史研究の貴重な史料。1494年に印刷された。
※4 間歩(まぶ)
坑道のこと。
※5 生野銀山(いくのぎんざん)
1542年に銀鉱脈が発見され、江戸時代には佐渡金山、石見銀山と並び徳川幕府の財源的な存在であった銀山。明治29年には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行し続けたが、昭和48年に閉山した。
※6 解体新書
1774年に刊行された日本最初の本格的な西洋解剖学書の訳本。翻訳には、前野良沢、杉田玄白,中川淳庵、桂川甫周らが参画したといわれる。
※7 陳元贇(ちんげんぴん)
1587年~1672年。1625年に明国から亡命。武術家・陶芸家として高名。講道館柔道の源流と言われている。
(参考図書・参考資料)
千葉望著「よみがえるおっぱい」 海拓舎 2000年
坂本光司著「日本でいちばん大切にしたい会社」 あさ出版 2008年
家の光「父の言葉で生きてきた」家の光 2008年5月号
地域づくり「石見銀山の町を世界遺産として再生」地域活性化センター2008年6月号
月刊アントレ「起業家たちの軌跡」株式会社リクルート 2008年7月号

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